2024年3月8日

 すべての当事者性は虚構であり、うまくウソをつくことが本当らしさであり、リアリティとは詐欺のことである。鳥の声が聞こえる。モールス信号でいえばトントンツーツーツー、といった感じ。「I」と「O」。職を探さなければならない。ホワイトカラーの悩みは非常に画一化してきている。飲み屋で何度や繰り返してきたか知れない「弊社」への愚痴は、構造上の問題であり悪人不在、という結論にいずれは達さねばならない。これに陥る者は数あれど、才能があってここに病をうみおとす者。(これは、もちろんあらゆる価値観を転倒しようとする言葉遊びに、生活の憂さを晴らそうという遊戯であり、しかしみずからへの慰めであることを否定しない。)ここへ来て病は次のステージへと移った感があり、自裁ということについてとみに考えだす。何度も言うが非常にポジティブなアクシオンに思える。この世を去った人々との境目なども特に見当たらないし。何が「残念です」なのだろうか。わたしはお前に向けて言っています。いまお前の方角を向いてこの文章を打ち込んでいます。昨夜ボロい木のドアを触ったらトゲが手の平の皮下に潜り込んでしまって、抜くのに苦労した。針先をなんども皮膚に突き刺しながら、どうしてこのトゲを抜かなければならないのか、それがずっと分からなかった。リセット。解き終えて捨ててしまおうと、狂ったように紙のナンプレをやっている。新刊書店の脳トレコーナーの品揃えには凄まじいものがある。幼児・低学年向けの能力開発パズルなどを眺めてコンプレックスを刺激するもおかし。サピックスのお迎えに群れる御両親のお召し物は大してよろしいものでもない。夢と希望の生存戦略である。しょうもない古本屋。肉屋でコロッケを買ったがセブンの方が二十円も安くて美味い。これが、あれですね。心臓の裏っ側には泣き喚く地元の母親の写真が貼られている。彼女の血と汗と多めの涙とをすり潰して丸めて衣をまぶして揚げたもの。痛いは痛いであり痛いは嬉しいである。かような今日にも一切の成長を促してこない集団というのが不思議と存在しており、ある日なぜかそこに辿り着いた。そしてもうその磁場から逃れる予定はない。批評家はクソだが批評という言葉には思うところがあり同年代のそれを確かめたくなってから、毎日彼らの言葉を吐き気をおして眺める。言いたいことが沢山あって素敵。